坂東玉三郎という人・2月博多座・特別舞踊公演
(日本振袖始)
2月博多座は歌舞伎興行の月
今回は、主役として坂東玉三郎さんをお迎えします。
「坂東玉三郎 特別舞踊公演」演目は、
1.口上
2.鶴亀
3.日本振袖始
一つ目の奇蹟につながる生い立ち
坂東玉三郎さんは、現在、女形の最高峰であり、人間国宝でもあります。
玉三郎さんは、一般家庭に生まれます。実家は料亭を営んでいました。
幼少期は、料亭に出入りする芸者たちに囲まれて育ちます。
このことは、一般の家庭と違って、環境は少し歌舞伎界に似ていました。
そして、4,5歳から歌舞伎座通いをしていました。
一歳半の時、小児麻痺を患い右足に後遺症が残りました。そのためか、外で泥んこになって遊ぶような男の子らしさはなく、引っ込み思案なところがありました。
この後遺症のリハビリのために日本舞踊を習ったことが、歌舞伎界へと縁を繋ぎます。
日本舞踊が好きで好きでたまらない、発表会は一日だけだけど、
歌舞伎の興行は25日。
今日も出られるの?明日も?と心待ちにするような少年でした。
1956年十四代守田勘彌の部屋子(へやご)(内弟子)となります。
親としては「打ち込めるものがあれば何でもいいから」と思い、せめて「申し上げます」という一言のせりふでももらえたら・・・とそのくらいの期待で守田家に弟子入りしました。
1964年6月十四代目守田 勘彌の芸養子となります。
歌舞伎座で五代目 坂東玉三郎を襲名。
玉三郎さんが注目を集めるようになったのは、1970年代に入ってからのことです。
玉三郎さんご自身が「運がよかった」と言っていますが、いくら才能があろうともそれを見い出す人がいなければ、埋もれてしまったことでしょう。
最初の発見者 三島 由起夫
三島氏は、昭和を代表する女形六代目歌右衛門を贔屓としていました。
歌右衛門が50代の時期に、玉三郎という、新たなアイドルを発見し、知人・友人たちに観るように騒いでいました。
『椿説弓張月』は、当時まだ十代の若手女形、五代目坂東玉三郎をヒロインの白縫姫に想定して書いています。
そして、円地文子や数々の文化人に発見されています。
多彩な才能
玉三郎さんは、歌舞伎の世界だけにとどまらず、世界の有名アーティストとの共演を果たしています。
チェリストのヨーヨーマ
モーリス・ベジャールの振り付けにより、パトリック・デュポン、 ジョルジュ・ドンらと共演、以後もバレエとの交流が続き、
新派、「ナスターシャ」(演出 アンジェイ・ワイダ)、 「エリザベス」(演出 ヌリア・エスペル)などの翻訳劇、「サド侯爵夫人」など現代劇の舞台にも出演していますし、ご自分も吉永小百合主演の「外科室」で監督を務めています。
2012年には、太鼓集団の「鼓童」の芸術監督となり、「アマテラス」での共演を果たしています。
(アマテラス)
今回は、成駒屋の三兄弟との共演です。
近年、若手俳優への芸の継承を積極的に行われています。
玉三郎さんは単に歌舞伎という場所以上のところに立っているような気がします。経験や年輪の積み重ねだけでなく、玉三郎一代かぎりの何かを突き詰めようとしているように見えます。
月日を重ねるほどに美しさが透明になってゆく感じ。
芸の力による美しさではなく、存在自体の美しさを極めようとしているのではないか。
そこがこれまでの歌舞伎の女形とは何かが決定的に違うことのように思います。
だから、玉三郎さんの舞台を観るときは、いつも「これが最後かもしれない」という気持ちでいます。世界中が「練り上げられた芸」と賞賛しても、自分自身が納得しなければ、「何何はもうしません」と言われかねません。
(鷺娘)
実際、ここ数年で封印し始めた演目もあります。「鷺娘」は、一般の歌舞伎公演ではやらない。「娘道成寺」はやらない。舞踊は体力を使います。
「京鹿子娘二人道成寺」ならやると言われ始めています。
もちろん他の役者さんもそうでしょうが、いつも玉三郎さんの舞台は「この一瞬一瞬に最善を尽くしている。」と感じながら観ています。
舞台に登場するだけで劇場中が息を飲む。そんな玉三郎さんの特別舞踊公演を、
ぜひ、お見逃しなく!
次回は、成駒屋三兄弟についてお伝えしてまいります。
素敵な観劇のひと時となりますように。
(写真:松竹)